平成22年1月12日火曜日

三つの伝説上の作品



寺山修司の作品の中から最も有名であるし一部の人に非常に人気のあるし演劇と映画を選んだ。その三つの作品は寺山の芸術の中ではとても大切なので、それを精通すると寺山の世界はもっと面白くなるかもしれない。だから、ノックと「書を捨てよ、町へ出よう」と「トマトケチャップ皇帝」を紹介するつもりである。


1975年の「ノック」

演劇に対し天井桟敷の新しいアプローチは「ノック」と言う演劇で良く表された。1975年4月19日午後一時に、東京都杉並区(すぎなみく)阿佐ヶ谷(あさがや)では同時に連続的に 18の演劇は演じた。
演ずるのは天井桟敷の俳優だけでなく、阿佐ヶ谷に住んでいた人々または全国から一枚の地図を持って訪れた人々であった。時には観客として、時には演者として、人々が観測した。


「ノック」について寺山修司は
「それは、単に『市街』を私たちの演劇のための舞台とする、ということではなく、市街の日常の現実原則を、丸ごと演劇として抱えこむ、ということであった。」と言った。30時間市街劇の「ノック」は天井桟敷の最も前衛芸術の演劇で、過激な作品となった。
どうしてでしょうか?
その演劇のためのチケットは売られなかった。チケットの代わりに観客は「地図」を一枚もらった。「地図」を手に演劇を探しながら街を歩いた。


「書を捨てよ町へ出よう」と言うのは三つの形に出た:


1967年の出版された寺山修司の評論集
1968年に天井桟敷の第7回上演として発表された演劇であった
1971年に「書を捨てよ町へ出よう」は映画になってしまった
その評論集と公演作品と映画は、題名は同じであるが、内容は違う。

映画の予告編


この映画は寺山の一つ目の長い映画であった。この大胆な映画は一方では疎外感(そがいかん)の研究で、他方では社会政治的な革命を懇願(こんがん)する60年代のカウンタカルチャーの世代の人々の描写である。「書を捨てよ町へ出よう」は分割されたイメージから作られる。その短いイメージまたは部分には若い男(主人公)と家族崩壊との難問があらわれる。


1970年の「トマトケチャップ皇帝」と「実験映像ワールド」



その映画は最初に長くて85分ぐらいかかったが編修し直してから1970年に76分がかかった。その上、最後のバージョンは28分だけかかって寺山修司と天井桟敷の「実験映像ワールド」の部分になった。それは寺山のもっともシュールでアヴァンギャルドな映像作品であった。映画は人々の色々な激しくてひどくて性向的なシーンが多い。

平成21年12月28日月曜日

天井桟敷-アングラの演劇実験室





状況劇場(じょうきょうげきじょう)の唐十郎(からじゅろう)と早稲田小劇場(わせだしょうげきじょう)の鈴木忠志(すずきただし)と黒テントの佐藤信(さとうまこと)と天井桟敷(てんじょうさじき)の寺山修司と並びアングラ四天王と呼ばれ、1960年代半ばから1970年代半ばにかけて、小劇場ブームを巻き起こした。


新劇運動
そこまでは主な演劇は新劇であった。新劇と言うのは歌舞伎や新派つまり旧劇に対した演劇であった。そんな演劇は明治末期から発達して西欧近代演劇を摂取し(せっしゅ)リアリズムを主体として近代生活を反映した。


小劇場運動
それに対して、1960年代半ばから小さい前衛劇団の運動が始まった。その運動を大学の演劇クラブの若い人々が初めて知的で実験の演劇を作るつもりであった。彼らは着想の豊かな人々で自分の新しい考え方を述べたがった。その結果、小劇場は反体制反新劇前衛劇になってしまった。


天井桟敷とは
その時のアングラの小劇場のグループの中では大事な劇団で演劇実験室であった。出発点は天井桟敷の俳優は歌舞伎のような化粧してステージに出てポップソングを使って新劇の終わりを公表した。それを見て全国の評論家は「アングラだ」と言った。
(絵:寺山修司と天井桟敷の第一の「青森県のせむし男」のポスター)


天井桟敷の劇団名はどこから来たか。


1.劇団名はマルセル・カルネの「天井桟敷の人々」(フランス語で:Les Enfants du Paradis)と言う映画に由来する。
2.「地下(アングラ)ではなくて、もっと高いところへ私たちをおこう-と思って「天井桟敷」と名付けた」と言って寺山は他の起源を挙げた。
3.天井桟敷と言うのは歌舞伎座などで後方最上階の低料金の席であった。寺山修司の想定によれば天井桟敷の演劇を誰も見られた


寺山修司と天井桟敷の主な基礎条件:


§演劇と上演の伝統的な知覚を破壊すること→彼らは観客の今までの伝統的な見方を変えたがった



§俳優の役の重要性→新劇の中では大切なのは俳優でなくて台本であった。そのため、小劇場の監督は俳優の役をもっと大切にしたがった
§能と歌舞伎への新しい接近→新劇は旧劇に対した演劇であったが小劇場は歌舞伎や能などから色々なことを借り始めた
§レアリズムを放棄(ほうき)



天井桟敷の最も大切な演劇:
1967年:





青森県のせむし男

毛皮のマリー (絵:天井桟敷の「毛皮のマリー」のポスター)
1968年:
書を捨てよ町へ出よう
1969年:
犬神
1972年:
人力飛行機ソロモンの組立て方
1975年:
ノック
1978年:
奴婢訓(ぬひくん)
身毒丸(しんとくまる)
1979年:
レミング
1981年:
百年の孤独

平成21年12月27日日曜日

寺山の生涯の最も大切な事実




1935年十二月十日に寺山修司は寺山八郎(はちろう)と寺山はつの長男として(はつによれば)青森県弘前市紺屋町(ひろさきしこうやまち)に生まれた。修司によれば彼は走っている列車の中で生まれ、ゆえに故郷はない」と言って自分で作った噂になってしまった。
1941年は寺山八郎(父)召集され出征した。
1945年修司は九歳になって、青森大空襲(あおもりだいくうしゅう)で焼け出された。翌日の放送で敗戦を知らされたと、青森の三沢(みさわ)へ転居して寺山八郎の兄(義人-あきひと)の寺山食堂の二階に間借りをした。そこで、父の戦死を知らされた。
九月二日にアメバ赤痢のためセレビーズ島で父は戦病死した。寺山修司はそれについて高校の時に「チェホフ際」と言う短歌を書いた。 :寺山八郎、はつと修司、「寺山修司、幻想写真館-犬神家の人々」から)


寺山修司は母が二人いた:実母の寺山はつと彼の叔母の坂本きゑ
はつは三沢に住んでいた時にアメリカの進駐軍ベースキャンプの図書館に勤めたが1949年に九州の芦屋(あしや)のベースキャンプに転勤した。修司とは別居することになってしまった。その別れのシーンを修司は何度も文章にしていた。彼は坂本夫婦と一緒に暮らし始めた。修司は中学校の一年生の時から高校の卒業まで坂本きゑに育てられることになった。
(絵:寺山はつ、「寺山修司、幻想写真館-犬神家の人々」から)
坂本夫婦は歌舞伎座と言う映画館を経営したので修司は外国から来た映画をよく見られた。
1954年は修司は十八歳になって早稲田大学教育学部文学科に入学した。
1955年ネフローゼを発病して入院してはつは修司の看護に当たっていた。

1963年は寺山修司は(二十八歳)九條映子(くじょうえいこ)と結婚した。 はつは九條映子に対しとても焼餅焼きの女だったので強く反対した。
(絵:寺山修司と九條映子、結婚式:北川登園の「天才・寺山修司。」と言う本から)
1967年一月一日に寺山修司は天井桟敷(てんじょうさじき)と言う演劇実験室を結成した。第一の上演した演劇は「青森県のせむし男」であった。三月評論集「書を捨てよ、町を出よう」は刊行された。
九條映子は寺山修司を彼の天井桟敷の友達と浮気したから1970年離婚したけれども一緒に天井桟敷で働き続けた。
寺山修司は1983年五月四日に肝硬変で入院したあとで寺山修司は敗血症で死去した
天井桟敷は1983年七月三十一日解散した





単語リスト②



発表の単語リスト


言葉
仮名
英語
ポーランド語
前衛芸術
ぜんえいげいじゅつ
Avant-garde
awangarda
疾走
しっそう
career
kariera
脚本家
きゃくほんか
dramatist
dramaturg
演出家
えんしゅつか
Stage-director
reżyser
作詞家
さくしか
Lyricist
autor tekstów piosenek
評論家
ひょうろんか
essayist
eseista
批評家
ひひょうか
critic
krytyk
台本作家
だいほんさっか
Scriptwriter
scenarzysta
監督
かんとく
director
reżyser
司会者
しかいしゃ
presenter
prezenter
戦病死
せんびょうし
To die on duty (because of illness)
umrzeć na froncie (z powodu choroby)
召集
しょうしゅう
Call up
zostać powołanym
出征
しゅっせい
Be sent to the front
być wysłanym na front
アメバ赤痢
アメバせきり
Dysentery
pełzakowica/Ameboza (choroba)
実母
じつぼ
Real mother
rodzona matka
私生児
しせいじ
bastard
dziecko z nieprawego łoża
女中
じょちゅう
Female servant
służąca
誘惑する
ゆうわくする
seduce
uwieść
大空襲
だいくうしゅう
Big air raid (attack)
wielki nalot powietrzny
敗戦
はいせん
defeat
przegrana
間借り
まがり
Rent a room
wynająć pokój
コラージュ

Collage
kolaż
怪人
かいじん
Mysterious man/woman
tajemniczy człowiek
進駐軍
しんちゅうぐん
Occupation forces
siły/wojska okupacyjne
米兵(米軍兵力)
べいへい(べいぐんへいりょく)
American military
wojsko amerykańskie
付き添う
つきそう
escort
odprowadzić
ネフローゼ

nephrosis
Zespół nerczycowy
新居
しんきょ
New home
nowy dom
愛憎
あいぞう
Love and hatred
miłość i nienawiść
親孝行
おやこうこう
Filial piety
synowskie oddanie
近親相姦
きんしんそうかん
incest
kazirodztwo
幻想
げんそう
fantasy
fantazja
不首尾
ふしゅび
failure
porażka
共同設立者
きょうどうせつりつしゃ
Co-funder
współzałożyciel
肝硬変
かんこうへん
cirrhosis
marskość wątroby
敗血症
はいけつしょう
Blood-poisoning
sepsa
新劇
しんげき
New drama/ western-style theatre
Nowy teatr/ teatr w stylu zachodnim
小劇場
しょうげきじょう
Small theatre
małe teatry
演劇実験室
えんげきじっけんしつ
Experimental theatre
Teatr eksperymentalny/ teatr laboratorium
旧劇
きゅうげき
Classical drama
Teatr tradycyjny, klasyczny
西欧近代演劇
せいおうきんだいえんげき
Western modern theatre
Współczesny teatr zachodni
摂取
せっしゅ
adoption
zaadoptowanie
反体制
はんたいせい
antiestablishment
Anty-instytucjonalny
邦題
ほうだい
Japanese title
Japoński tytuł dzieł zagranicznych
基礎条件
きそじょうけん
postulate
postulat
上演
じょうえん
staging
inscenizacja