平成21年12月27日日曜日

寺山の生涯の最も大切な事実




1935年十二月十日に寺山修司は寺山八郎(はちろう)と寺山はつの長男として(はつによれば)青森県弘前市紺屋町(ひろさきしこうやまち)に生まれた。修司によれば彼は走っている列車の中で生まれ、ゆえに故郷はない」と言って自分で作った噂になってしまった。
1941年は寺山八郎(父)召集され出征した。
1945年修司は九歳になって、青森大空襲(あおもりだいくうしゅう)で焼け出された。翌日の放送で敗戦を知らされたと、青森の三沢(みさわ)へ転居して寺山八郎の兄(義人-あきひと)の寺山食堂の二階に間借りをした。そこで、父の戦死を知らされた。
九月二日にアメバ赤痢のためセレビーズ島で父は戦病死した。寺山修司はそれについて高校の時に「チェホフ際」と言う短歌を書いた。 :寺山八郎、はつと修司、「寺山修司、幻想写真館-犬神家の人々」から)


寺山修司は母が二人いた:実母の寺山はつと彼の叔母の坂本きゑ
はつは三沢に住んでいた時にアメリカの進駐軍ベースキャンプの図書館に勤めたが1949年に九州の芦屋(あしや)のベースキャンプに転勤した。修司とは別居することになってしまった。その別れのシーンを修司は何度も文章にしていた。彼は坂本夫婦と一緒に暮らし始めた。修司は中学校の一年生の時から高校の卒業まで坂本きゑに育てられることになった。
(絵:寺山はつ、「寺山修司、幻想写真館-犬神家の人々」から)
坂本夫婦は歌舞伎座と言う映画館を経営したので修司は外国から来た映画をよく見られた。
1954年は修司は十八歳になって早稲田大学教育学部文学科に入学した。
1955年ネフローゼを発病して入院してはつは修司の看護に当たっていた。

1963年は寺山修司は(二十八歳)九條映子(くじょうえいこ)と結婚した。 はつは九條映子に対しとても焼餅焼きの女だったので強く反対した。
(絵:寺山修司と九條映子、結婚式:北川登園の「天才・寺山修司。」と言う本から)
1967年一月一日に寺山修司は天井桟敷(てんじょうさじき)と言う演劇実験室を結成した。第一の上演した演劇は「青森県のせむし男」であった。三月評論集「書を捨てよ、町を出よう」は刊行された。
九條映子は寺山修司を彼の天井桟敷の友達と浮気したから1970年離婚したけれども一緒に天井桟敷で働き続けた。
寺山修司は1983年五月四日に肝硬変で入院したあとで寺山修司は敗血症で死去した
天井桟敷は1983年七月三十一日解散した





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